タイトル

タイトル2

1902年佐賀で生まれ、1963年(昭和38年)7月28日に61歳の若さで永眠。
最後の最後まで、作品を制作するため病室に画材セットを持ち込んだが病魔には打ち勝てず、無念な最期であった。
日本洋画界において女流画家の地位向上に尽力し、婦人画家協会の創設(後の女流画家協会)にも関わった。
東京・練馬のアトリエに多くの作品を遺して逝き、友人・親友・支援者でもある石橋正二郎・冨久ご夫妻(ブリヂストン創業者)のお力で、甲斐仁代の遺作展を開催して頂きました。

1963年(昭和38年)9月 一水会展にて遺作特別陳列
1964年(昭和39年)6月 女流画家協会展にて遺作特別陳列
1964年(昭和39年)10月1日-7日 日動サロンにて第一回甲斐仁代遺作展開催
1969年(昭和44年)3月31日-4月5日 文芸春秋画廊にて甲斐仁代遺作展開催
1976年(昭和51年)9月6日-9月12日 岡崎市美術館にて甲斐仁代遺作展開催

現在、最後となった'76年の遺作展では「石橋正二郎氏」より次のようなメッセージを頂いた。
手紙

自画像
「自画像」(1923年/大正12年)
東京国立近代美術館所蔵


タイトル3

一水会々員の女流洋画家甲斐仁代は、かねて療養中のところ江古田にある中野療養所で死去した。享年61才。
明治35年(1902年)佐賀県に生まれで、大正11年女子美術学校西洋画科を卒業して翌年二科会に初入選。
以後二科会には毎年出品を続け、また婦人洋画協会の創立に参加するなど活躍した。
岡田三郎助の教えを受け、牧野虎雄の旺玄社に属するなどの時期もあったが、のち一水会に出品し戦後会員に推された。
作品は終始純粋な芸術観に貫かれ、豊潤な色彩感覚とデリケートで風格ある画面に魅力を示していた。
晩年は朋友の石橋正二郎・石橋富久ご夫妻(ブリヂストン創業者)に支持されながら、自己の画境を深めて行った。

石橋正二郎・富久ご夫妻
1959(昭和34)年、皇太子ご成婚の日、宮中参内の前に自宅にて
※彩「追憶 石橋富久」石橋幹一郎著より転載


石橋夫妻



タイトル4

出来事
1902年(明35)11月2日、佐賀市に生まれる。
1916年(大5)父母と共に中国青島に移住、青島女学校2年生に転校。
1919年(大8)青島女学校卒業。
上京、女子美術学校西洋画科高等科に入学。
岡田三郎助先生に師事。
1922年(大11)同校卒業。卒業制作「眼帯をした人」「自画像」と共にこの頃すでに風格ある個性を表わしていた。
卒業後青島に帰郷。「ロシヤ婦人」など数点の作品を描く。
1923年(大12)二科会に初入選「ロシヤ婦人の像」当時二科の女流画家は会員の植原久和代女史一人だけで、女性の入選者として甲斐さんが最初の人だった。
二科会初日の9月1日に関東大震災がおこり、この年の展覧会は公開されずに終った。
1924年(大13)「実業の日本社」主催の婦人洋画展に出品。金賞を受ける。青島にて個展開催。帰路ハルピンに旅行。
1925年(大14)この年より昭和11年迄の間、二科会の他に牧野虎雄先生主催の旺玩社にも同人として出品。
1937年(昭12)一水会に出品。以後昭和37年まで同展に出品。
1947年(昭22)一水会会員に推薦。
1955年(昭30)一水会会員優賞受賞。
1957年(昭32)日展出品、以後37年迄続けて出品。
この間、女流画家協会にも会員として出品。
1963年(昭38)春、信州安茂里に写生旅行中発病。
5月、東京中野療養所に入院。病院にも絵具箱を持ち込んだが、ついに描けなかった。
7月28日、永眠。
9月、一水会展にて遺作特別陳列。
1964年(昭39)6月、女流画家協会展の一室に遺作特別陳列。
10月1日−7日、日動サロンにて第1回遺作展開催。
1976年(昭51)9月6日-12日、岡崎市美術館にて甲斐仁代遺作展開催。